銅メダル、福原愛「足を引っぱった」にどうしても伝えたいこと
卓球女子団体
銅メダル獲得
リオ五輪。卓球女子団体の3位決定戦。日本はシンガポールと戦い、3―1で勝ち、ロンドン五輪の銀に続き、2大会連続メダルとなる銅メダルを獲得した。
試合後、福原愛はこう答えた。
「本当に良かった。足を引っ張ってばかりで、みんなに感謝しています。一昨日(準決勝)も負けてしまって、何度も思い出して後悔していた。絶対に死ぬ気で勝ちに行きました。(伊藤の第4ゲームは)日本のみなさんと同じで祈るしかできなかったので、全神経を美誠に注いでいました。良い試合もあったけど、悔しい試合もいっぱいあった。本当に苦しいオリンピックでした」
本当に苦しかった、そう答えた。
福原愛が3位決定戦の第1ゲームのシングルスで勝利を上げられなかったのは事実だ。それはかばうことはできないのだが……。
福原愛の重圧
ただ、福原愛選手の重圧はハンパではない。
天才卓球少女
10代の人にはわからないと思うけど。福原愛が僕ら国民の前に現れたのは福原愛がまだ4歳の頃。「天才卓球少女」と呼ばれ、一躍国民的なアイドルになった。
わずか5歳10ヶ月の時には全日本選手権バンビの部(小2。満8歳)で優勝し、数ある大会で優勝し、史上最年少記録を作っていった(wikipedia)。
小4でプロ
そして小4でミキハウスと専属契約を結び、プロになった。
小4でプロだ。
これまで目立たない卓球の世界では異常なモノだった。
小6の6月。11歳の時には。ITTFジャパンツアー、一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たした。これも異例のことだった。
中学(青森山田中学校)に通う頃には「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中もインターハイも国体も特例で出場できるようになった。小西杏と組み、ダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼亜衣と組んでいる)。
凄まじい中学時代
中学3年間の強さは凄まじかった。
高校以下では無敵。
国際試合でも勝利を重ね、世界各地のITTFプロツアーに数多く出場し、世界ランキングを上げていった。
14歳の若さで2003年世界卓球選手権個人戦に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8に進出した。14歳で日本の卓球界を大きく引っぱっていた。
15歳でアテネ五輪
そして、2004年3月の世界選手権団体戦と、4月のアテネ五輪アジア予選出場が内定した。
福原が史上最年少の15歳でオリンピックに出場した。まさに現在の伊藤美誠と同じ立場。いや、厳密にはシングルスでの出場。現在の伊藤美誠以上とも言える。日本中の注目を集めているのだから。
最高視聴率31.9%
アテネでは1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに勝ち、3回戦はガオ・ジュン(高軍)に圧勝、そして4回戦はキム・キョンア(金暻娥)に負けた。
この福原の試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかっていない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得。
国民の愛ちゃん
最高視聴率31.9%。
これはアテネ五輪放送の中でトップクラスの数字だった。
卓球の天才少女は4歳から日本中の注目を受け、国民から天才少女と注目され、常にオリンピックでの活躍を期待された。天才少女なんだから「勝つだろう」「勝たなければならない……」という目で、だ。
福原愛は国民の「娘」のような存在だった。愛されていたが、そのプレッシャーは並ではなかったように思う。この存在で似ている人がいる。
それがフィギュアスケートの浅田真央選手だ。
彼女もまた、幼い頃からの積み重なるプレッシャーは強烈なものがあると思う。実際、Twitter上ではこんなツイートがあった。
浅田真央と同じように福原愛の国民からの重圧体感装置とかあって、体感したら死にたくなるんだろうな。三回くらい胃潰瘍で吐血しそう。
— xin cai (@cai4xin1) 2016年8月16日
中国超級リーグ
福原愛は高校に入学すると、さらに過酷な世界に進んだ。
中国リーグに2年連続で参加。中国で最もレベルの高い超級(スーパー)リーグ。海外での挑戦だった。この挑戦もその期待に応えるためのものの一つであったように思う。
スケジュールは過酷だった。
週1、2回の日程。
広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。
2006年5月には世界選手権ブレーメン大会で銅メダルを獲得。世界での3番目に入ったのだ。
その後、2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学。2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表し、2007年4月より『とっさの中国語』(NHK教育)にレギュラー出演したりもした。
国民の娘でもある彼女はテレビでも活躍していた。
その後、2011年5月。ロッテルダム世界選手権混合ダブルスにおいて岸川聖也とペアを組み、この種目では日本選手34年ぶりの銅メダルを獲得。
ロンドン五輪で銀メダル
2012年7月ロンドン五輪ではシングルスでは自身初の準々決勝進出し(準々決勝では世界ランク1位の丁寧と対戦し、敗れる)、団体では準決勝シンガポール戦で、シングルス銅メダリストの馮天薇を3-1で破り、石川や平野も勝ち、日本卓球史上初となる銀メダルを獲得した。
日本の卓球を牽引してきた福原愛の大きな活躍の結果でもあった(しかしロンドンオリンピック終了後、8月24日に前年夏に故障した右肘滑膜ひだ障害の手術に踏み切った)。
2014年には仁川アジア大会の団体戦決勝で中国と対戦し、チームは敗れて準優勝だったが、自身は第1戦で世界第2位であり、丁寧から初勝利をあげた(丁寧はリオ五輪でシングルス金メダルを獲得)。
20年以上…
福原愛は現在27歳。
4歳から注目されてきた福原愛は常にメディアにさらされ、常に国民の注目を受け、常に勝たなければならないプレッシャーの中にいた。
約20年だ。
人生のほぼ全て、国民の注目を浴びてきた。
これは想像を絶するものだったように思う。
中国選手が圧倒的に強い中、最高世界ランクは4位(石川佳純の最高世界ランクと同じ。中国人が圧倒的に強い世界であり、日本人選手は相当苦しい)と日本中の期待に応えてきた。
人並みの正月をすごしたことがない
「お正月を家でゆっくりとすごしたことがない……」表現は違ったかもしれないが、そう笑顔で福原愛が答えていたことがある。
まさに全てを卓球にかけてきた。
石川佳純など、
日本卓球界に
多大な影響
そして、福原愛の存在がエース石川佳純をつくり、伊藤美誠を生んだ。
石川佳純は小6で出場した全日本選手権、インタビューでこう答えた。
「愛ちゃんみたいに強くなりたい」
まさに福原愛を目指し、強くなった。
伊藤美誠についても、卓球の世界でこれだけ頑張ってきたのは、福原愛の活躍により卓球が注目されたことや、ロンドン五輪のメダル獲得なども大きなモチベーションの一つではあっただろう。
福原愛がいなければ、日本の卓球女子はここまで注目されなかっただろうし。注目されなければ、石川佳純や伊藤美誠も今とは違ったはずだ。
ただ、これは福原自身をさらに苦しめることにもなる。
福原愛を目指した石川佳純や伊藤美誠が強くなってくると、国民からのプレッシャーだけでなく、キャプテンとして「勝たなければならない」というプレッシャーや、「私が負けるわけにはいかない」というプレッシャーを強烈に背負うことになる。
相当、苦しいオリンピックだったように思う。戦う相手、国民の期待、キャプテンとしてのプレッシャーも感じつつ、戦っているのだから。
それでも、福原愛はその重圧の中、シングルス初のベスト4入りし、神がかった強さを見せたし。彼女の優しさ、彼女の気遣いがあったからこそ、石川佳純や伊藤美誠が伸び伸びと活躍できたのだろう。
リオ五輪準決勝で敗れた時、福原は中国メディアに対し、こう答えている。
「わたしはキャプテンだから。(伊藤)美誠は私よりもっとつらい。もし私が泣いたら、彼女がもっとつらくなってしまう。だから私は唇を噛んででも、泣くわけにいかなかった」
石川佳純や伊藤美誠の活躍ももちろん素晴らしかったし、彼女たちの頑張りがメダル獲得につながったが、それでもこう言いたい。
愛ちゃん、おつかれさま。
愛ちゃんのおかげで獲得できた銅メダルだった、と。