哲学者カントとプロゲーマー梅原大吾が語る「孤独とは悪なのか…」

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孤独は悪なのか…

孤独。

SNSなどを見ていると、「孤独イコール悪」だともいえるほどの世界が広がっています。

友人やフォロワーがいればいるほど良い

友人やフォロワーがいればいるほど良いことだし、いいねがつけばつくほど、いいこと。

逆にいえば、孤独イコール悪なわけです。

「そんなことは思っていない……」

そう考えている人だって、例外なく、その世界の中で僕らは生きている。

ピコ太郎などが世界中の人に見られたり(視聴回数が増えたり)すると、それは注目され、CMに出まくったりもする。これはYouTubeなどのピコ太郎だけではなく、TwitterでもInstagramであってもそうです。

そうした世界が僕らに対しても大きな影響を与える。

多くの人が周りにいる人は何か成功したり、幸せな人で、誰も周りにいない孤独な人はどこか不幸な人。

そう考えてしまうわけです。

孤独の意味

でも、はたして、そうなのでしょうか。僕はそうとは言えないと思う。

何かで「成長」しようと考えた時、その努力は1人で取り組むことが圧倒的に多い。

仕事でいうと、そのためのスキルを鍛えるのは、仕事以外の時間で取り組むのだし、あなたがアスリートであっても、1人黙々と取り組むことがどうしても必要になってくる。身体を動かすトレーニングだけでなく、勝つためのノートを1人黙々とつけることだって必要かもしれない。

1人で黙々と取り組むわけです。

周囲の人が不要というわけではない

確かに物事を成し遂げるには周囲の人の力が必要です。その意味では、彼ら彼女らとうまくやっていくことも必要なわけです。

それに周囲の人が刺激になったり、周囲の人の存在が「(このままでは)自分はダメだよな」と思わせてくれたり、ある種の成長につながることがあるかもしれないけど、本当の意味では孤独こそが成長につながる。

成長には「孤独」が必要なのです。

以前、プロゲーマーの梅原大吾の著書『勝負論 ウメハラの流儀』を読んだ時に印象に残った一節に次のものがあった。

「群れていることそのものには、成長の持続、勝ち続けることに対しての価値がない。その場の安心はむしろ成長を鈍化させ、しまいには成長することをためらわせる。
仲間の中でひとりだけ成長すれば、もう仲間ではいられないからだ。その恐怖を感じるからこそ、孤独を恐れると自分で成長することをやめてしまうのだ。
その場の孤独を埋めるために群れるか、自分の成長の持続を大切にするか。この2つの選択肢は、同時には満たせない。だから孤独と感じていることは、成長している限り正しい。同時に、ある集団で仲間で居続けることを優先し、成長をやめることは、結局全員揃ってゆるやかに自分たちの価値を落とし続けていることにほかならない」


仲間が成長、勝ち続けることに対して価値がない、というのは、その人の仕事や状況において、断定はできない。その意味ではこの全てに同感ではないけど、次のことは確かにそうだと思う。

「その場の孤独を埋めるために群れるか、自分の成長の持続を大切にするか。この2つの選択肢は、同時には満たせない。だから孤独と感じていることは、成長している限り正しい」

成長の要因の多くは孤独に何かに取り組むことによって、得られ、それが大きな変化につながる。

僕の過去の経験で言っても、これまで支援させていただいた多くの起業家の方(特に成功された方々)を見ても、1人孤独に何かに取り組み続け、考え続けた過去が確実にあり、それによって、自分の望む「変化」を得ている。

その意味では、SNSなどで「自分の友人が大勢いること」の自慢もいいのだけど、一方で「自分は孤独だ。最高だよ」という自慢もいいのだと思う 笑。

そのくらい、価値があるものだと思う。

哲学者イマヌエル・カントは著書『断片』の中で、こう語っている。

「われは孤独である。われは自由である。われはわれみずからの王である」

孤独を味方につけることだ。

そうすることで自分を成長させ、自由につながり、まさに自分自身をコントロールし、王になることができるのだから。